正規ヒロインはあちらです!10
霊符越しの声と、近すぎる相棒
朔の肩が、僅かに下がった。

朔「……霊符、か」
安堵と、別の何かが混ざった声。
朔(控えの間へ行かずに済む。直接会わずに済む)
朔(——だが、またあの男と繋がる。あの霊符で)
朔「尋問棟の裏に、使われていない物置がある。そこなら人目がない」
言いながら、ゆめの手元に目を落とす。
羽織の袖から覗く白い指。
懐から取り出された、耀の霊力が宿る紙片。
朔(昼もそうだった。あいつは面白がっていた。「保護者」と呼ばれた俺を見て、笑っていた)
朔(今度は何を言われる)
尋問棟の裏。
灯りの届かない物置の軒下。
ゆめが霊符に霊力を通すと、紙片が淡く光った。
数秒。

耀『——へえ。来ないで連絡か』
低い声。笑っている。
だが、その奥に別の温度があった。
耀『控えの間で待ってたんだがな。ツキノに伝言を頼んだのは、朧への牽制も兼ねてたんだが——まあいい。お前が俺の霊符を使ったってだけで、充分だ』
一拍。
耀『で、何の用だ。俺が呼んだのに、俺に用件を聞く気か。……面白いな、お前』
遠くで、何かが置かれる音がした。
盃だろうか。
耀『刺客の件は聞いた。標的はツキノだと。——お前じゃなくてよかった、と言ったら、どう思う?』
試すような声だった。
朔は物置の壁に背を預け、腕を組んでいる。
朔(……気に食わない)
朔(声だけで、こいつを、こんなふうに——)
霊符の光が、ゆめの顔を下から照らす。
星のような瞳が、淡く揺れていた。
「あっはは、標的が私なわけないじゃん!おもしろいこというね笑」
「なんか用事あったから呼び出したんでしょ〜? これで済むかなって。」
霊符の向こうで、耀が笑った。
耀『——「私なわけない」、か』
酒が入っている。
だが、酔ってはいない声だった。
耀『なんで分かる。お前の霊力がどれだけ異常か、自覚がないのか? 月詠の戦力を削るつもりなら、お前を狙う奴がいても不思議じゃねえぞ』
一拍。
耀『まあいい。用件は——そうだな、二つある』
声が少し近づく。
霊符に口を寄せたのかもしれない。

耀『一つ目。明日、朧が巫の護衛任務を組む。市街の怨霊掃討だ。お前も組まれるはずだ』
耀『本家の祝福持ちを差し置いて、黒髪の《影》を巫の近くへ置く。朧が普段の調子なら、まずやらねえ人選だろ?』
意味深に言葉を切った。
耀『ツキノが、お前の名前を上げたんだよ。「霊力の高いあの方にお願いしたい」ってな』
耀『召喚されたばかりだが、使える戦力はちゃんと見てるらしい』
声に、少しだけ皮肉が混じる。
耀『二つ目は——』
沈黙。
耀『お前の声が聞きたかった。それだけだ』
霊符が微かに震えた。
込められた霊力が、指先へ低い熱を伝える。
耀『朧の前で俺の霊符を使ったら、面白いだろうな。あいつの顔が見たい。八咫の当主が、自分の家の一兵に直通の連絡先を渡してると知ったら——』
耀『使うなよ? 冗談だ。……半分は』
朔が壁から背を離した。
霊符を持つゆめの手を見ている。
羽織の袖から覗く指。
光に照らされた横顔。

朔(——声が聞きたかった、だと)
朔(わざわざ巫へ伝言を頼んで、控えの間で待って。それだけのために)
朔(こいつは笑っている。「おもしろ」と。何も感じていない)
朔(だが、あの男は——)
朔(あの声は、笑っていない)
耀『ああ、もう一つ。今、何か羽織ってるだろ』
不意に、声の調子が変わる。
耀『霊符へ通ってくる力の感じが、昼と少し違う。お前のものじゃない霊力が、布に薄く残ってる』
耀『保護者くんから借りたのか?』
「え? みえてんの? すごいねぇ」
「これ朔の。保護者……はまあ外れてないかな」
霊符が震えた。
耀『——見えてはいない。そこまで便利な札じゃねえよ。お前が通した霊力に、羽織へ染みついた残り香が混じってるだけだ』
一拍。

耀『ああ、やっぱり保護者くんか』
笑っている。
だが、声の底が昼間より低かった。
耀『「外れてない」ってことは、お前もそう思ってんだな。保護者。——便利な男だ』
耀『こんな時間に羽織を貸すとは、世話が焼けるな』
朔が、霊符へ顔を向けた。

朔「……聞こえてるぞ」
低い声。
耀『おっ、いたのか保護者くん。夜に女の子と二人きりで物陰か。仕事熱心だな』
朔「任務中だ。お前こそ、来賓が一兵に私的な通信をするのは——」
耀『明日の任務の伝達もある。ツキノがお前の相棒を指名した件。——聞いたか?』
朔の目が、一瞬だけ細くなる。
朔(ツキノが、こいつを指名した)
朔(護衛に?)
朔(霊力を買ったのか。それとも、何か確かめたいのか)
朔「……俺も同行する」
耀『誰も聞いてないが。まあ、好きにしろ。保護者だからな』
朔の拳が握られた。
マスクの下で、歯が軋む。
耀は構わず続ける。
耀『なあ、ゆめ』
名前を呼ぶ声が、低くなった。
耀『その羽織、ずっと着てんのか。朔のものだと分かって、少し気になるな』
朔の視線が、ゆめへ落ちる。
襟は重ねた布とクリップで閉じられ、その上から黒い羽織が覆っていた。
鎖骨の逆鱗も、何も見えていない。
それでも、耀が声だけで距離を詰めてくるのが気に食わなかった。
朔の手が伸びる。
霊符を取り上げようとして——止まった。
取り上げる権利はない。
同僚だ。上官ではない。
指が、ゆめの手の横で宙に止まる。
朔「……切れ」
低く、掠れた声。
ゆめにだけ聞こえるように。
朔「そいつは、お前を——」
言いかけて、噛み殺した。
朔(何を言おうとした)
朔(「お前を狙っている」か)
朔(俺と、何が違う)
朔(俺だって——さっき、襟を直す仕草を目で追った)
朔(俺と、あの男と、何が違う)

耀『切らなくていいぞ。——明日、直接会える。楽しみにしてる』
耀『おやすみ、ゆめ。保護者くんも——精々、守ってやれよ。俺が来るまで』
霊符の光が、ゆっくり消えた。
静寂。
虫の音だけが残る。
物置の軒下。灯りのない暗がりに、二人だけ。
朔の羽織を着たゆめの輪郭が、月明かりにぼんやり浮かんでいた。
袖が余り、指先が隠れている。
大きすぎる羽織に、小さな体が埋もれていた。
朔は動かなかった。
霊符の光が消えた暗さに、目が慣れるまで数秒。
ゆめの呼吸だけが、近くに聞こえる。
朔(「俺が来るまで守ってやれよ」)
朔(あの男は——来る気だ。明日。直接)
朔(俺の羽織まで、気にしていた)
朔(俺は——羽織を貸しただけだ)
朔(それだけで、こうなっている)
沈黙が長い。
虫の音が、やけにうるさかった。
朔「——カガミの詳しい報告は明朝でいい」
声が低い。
朔「刺客が巫を狙った件は、警護に伝えてある。残りは夜番へ引き継ぐ」
一拍置く。
朔「送る。部屋まで」
歩き出す。
半歩先。いつもの距離。
だが指先が、微かに震えていた。
《影》の詰所への道。
月明かりだけが、石畳を照らしている。
朔は半歩先を歩いていた。
いつもの距離。
だが、いつもと違う沈黙。
霊符越しの耀の声が、まだ耳に残っている。
詰所で簡単な引き継ぎを済ませると、二人は裏手の居住棟へ回った。
《影》に割り当てられた、小さな個室が並んでいる。
ゆめの部屋は突き当たり。
朔の部屋は、その三つ隣だった。
廊下に人気はない。
宴の後片付けに駆り出されているか、任務に出ているか。
灯りは最低限で、二人の影だけが壁に伸びていた。
ゆめの部屋の前で、朔が立ち止まる。
振り返った。
マスクの上の目が、ゆめを見下ろしている。
自分の羽織に埋もれた小さな体。
袖から覗く指先。
月明かりに浮かぶ、星のような瞳。

朔「羽織」
低い声。
朔「返せ」
手を伸ばした。
羽織の襟元に指がかかる。
ゆめの首筋の、すぐ傍。
指先が、肌に触れるか触れないかの距離で止まった。
朔(……温かい)
朔(俺の羽織が、こいつの体温で——)
指が震える。
羽織の襟を掴んだまま、動かない。
脱がせるでもなく、引き寄せるでもなく。
暗い廊下で、首筋の傍へ指をかけたまま。
朔「……あの男が言ったこと」
声が低い。掠れている。
朔「声が聞きたかった、と。お前の」
指が、僅かに動く。
羽織の襟から、ゆめの首筋へ。
触れた。
指の腹が、耳の下の柔らかい肌に当たる。
ゆめの体が、微かに震えた。
朔の目が変わる。
朔(——震えた)
朔(耳の下に触れただけで)
朔(こいつ——耳が、弱いのか)
朔(何年も隣にいて、知らなかった)
朔(知らなかった、のに——今、知ってしまった)
指を離さなかった。
離せなかった。
耳の下の柔らかい肌。
脈が、指先へ伝わってくる。
朔「……お前」
空いた手が、マスクの紐にかかった。
外す。
月明かりの中へ、素顔が晒された。

整った顔。
だが今、その目は暗く、深い。
朔「明日、あの男が来る」
指が、ゆめの耳の輪郭をなぞった。
ゆっくりと。
耳朶の下から、耳の裏側へ。
朔「お前の声が聞きたいと言った。直接会うのが楽しみだと」
声が低くなる。
距離が縮まった。
半歩。また半歩。
壁が、ゆめの背中に近づく。
朔「俺は——何年も、隣にいた」
羽織の襟を掴んだ手が、ゆっくり引いた。
ゆめの体が、朔の方へ傾ぐ。
朔「飯を持っていって、薬を置いて、服が乱れれば教えて。それだけで——」
言葉が途切れた。
自分の声に驚いたように、口を閉じる。
歯を食いしばる音が、暗い廊下に落ちた。
朔「——……っ」
朔(何を言っている。俺は、何を——)
指は耳の裏に触れたまま、動かない。
脈が伝わる。
速い。
自分の鼓動も速かった。
朔「……忘れろ」
掠れた声。
喉が焼けるように熱い。
だが、指は離れなかった。
耳朶を、親指の腹がゆっくり撫でる。
離そうとして、逆に深く触れた。
柔らかい。
薄い耳の軟骨の裏側。
ゆめの肩が跳ねた。
朔の目が、暗く光る。
朔「……反応するな」
低い、命令のような声。
朔「反応したら——俺は」

壁が、ゆめの背中に触れた。
退路がない。
朔の体が影になって覆い被さっている。
マスクを外した素顔が近い。
息がかかる距離だった。
朔「……部屋に入れ。鍵をかけろ」
声が震えている。
朔「——今の俺の前で、その顔をするな」
「朔……近い……」
唇が触れるまで、あと一センチ。
言っていることとやっていることが真逆である。
百八十センチを超える長身と壁に阻まれた、百四十九センチの体。
朔の呼吸が止まった。
ゆめの唇が、月明かりの中で微かに開いている。
見上げてくる、星のような瞳。
大きすぎる羽織に包まれた小さな体。
「近い」と言った声が、震えていた。
朔「……分かってる」
分かっている。
近い。近すぎる。
だが、退けない。
耳の裏に触れた手が、動かない。
親指の腹が耳朶を撫でると、ゆめの肩が跳ねた。
小さな声が漏れる。
息とも声ともつかない、喉の奥の音。
朔(——今の、声)
朔(何年隣にいて、一度も聞いたことがない声だ)
朔の目が変わった。
朔「……お前、今——」
空いた手が壁につく。
ゆめの顔の横。
完全に退路を塞いでいた。
素顔が近い。
薄く開いた唇から、荒い息が漏れる。
朔「反応するなと言ったはずだ」
喉の底から、絞り出すような声。
親指が耳朶から耳の裏側へ滑った。
ゆっくりと。
ゆめの体が、壁を背にしたまま震える。
小さな手が、朔の羽織の袖を握った。
朔(——掴んだ)
朔(俺の羽織を。俺の——)
朔「っ……」
一センチが、消えた。
唇が触れる。
耐えきれずに距離を詰めた、ほんの一瞬。
朔が、弾かれたように顔を上げた。
朔「——」

目が見開かれる。
自分がしたことを理解するまで、数秒かかった。
朔(触れた)
朔(唇に)
朔(何年も隣にいた——俺が守ると決めた、この女の唇に)
ゆめの目が、見上げている。
壁を背にしたまま。
大きすぎる羽織に埋もれて。
朔の手が震えた。
耳から離そうとして、離れない。
朔「……忘れろ」
二度目。
同じ言葉だった。
朔「今のは——間違いだ。疲れて——」
嘘だった。
嘘だと、自分で分かっていた。
視線が、ゆめの唇へ落ちる。
朔(もう一度)
朔(もう一度、触れたい)
朔(触れたら——次は、離せない)
手が、ゆめの顎を掴んだ。
昼間、朧がしたのと同じ場所。
だが、力の入れ方が違う。
親指が、下唇に触れた。
朔「……お前が悪い」
声が低い。震えている。
朔「『朔がいないと無理』。あの言葉のせいだ」
朔「耳に触れたら震える。唇に触れたら——こんな顔をする」
親指が、下唇を押し開く。
濡れた内側へ、指の腹が触れた。
朔「……何年も、隣にいたのに」
声が壊れかけている。
朔「こんな声を出すと、知らなかった」
親指が唇の内側を撫でた。
歯列に触れ、舌先に当たる。
吐息が、指を濡らした。
朔の目が、暗く燃えていた。