正規ヒロインはあちらです!09
宴のあとにお呼び出し
夜の回廊に、二人分の足音だけが響いている。
宴の灯りは遠く、雅楽が微かに流れていた。
終わりまで、あと半刻。

【朔】
半歩先を歩いている。
いつもの距離。いつもの背中。
だが今、自分の羽織がない。
夜風が直接当たる。
寒いのではない。むしろ、熱かった。
朔(——俺の羽織を着ている)
朔(俺の体温が残った布が、あいつを包んでいる)
襟を直そうと、布を引いていた仕草が目に残っていた。
片側を整えると、もう片側がずれる。
それを面倒そうに押さえていた、小さな手。
朔(何年も隣にいた)
朔(着物が乱れれば指摘した。襟を直せと言った。それだけだった)
朔(——それだけ、だったはずだ)
朔(なのに今日は、指摘するだけでは足りなかった)
朔(カガミの指が伸びた時、体が動いた。「触るな」と)
朔(あれは同僚として、当然の行動だ)
朔(当然の行動だ)
朔(当然の——)
拳を握る。
嘘だと分かっていた。
朔(耀が「この子」と呼んだ。朧が見下ろした。カガミが笑った。ツキノが睨んだ)
朔(今日まで、誰もこいつを見ようとしなかった)
朔(祝福のない黒髪。《影》の一兵。必要な時だけ呼んで、終われば追い払う)
朔(だから——俺だけが、隣にいられた)
朔(それが、壊れた)
朔(たった一日で)
背後から、ゆめの気配がする。
自分の羽織に包まれた、小さな体。
袖は余り、指先が隠れているはずだった。
見たい。
振り返って、確かめたい。
朔(見るな)
朔(見たら——)
昼から何度も蘇っていた言葉が、また頭をよぎる。
朔(「朔がいないと無理」)
朔(何の気なしに、当然のように)
朔(便利だから。楽だから。そういう意味だ)
朔(——そういう意味だと、思いたい)
朔(そうでなければ、俺は)
足が止まりかけた。
止めずに歩く。
半歩先。
朔(「お前の傍に来ていいのは俺だけだ」)
朔(言えなかった)
朔(言ったら、同僚には戻れない)
朔(同僚でなくなったら——こいつの隣にいる理由が、なくなるかもしれない)
朔(今のままでいい)
朔(——嘘だ)
マスクの下で、唇を噛んだ。

【耀】
宴の席に戻った耀は、盃を傾けながら天井を見ていた。
近くでは、ツキノが列席者と話している。
可愛らしく、慎ましく。白い髪を揺らし、向けられる言葉へ丁寧に答えていた。
耀はそれを横目で見ながら、別のことを考えていた。
耀(——あの子)
耀(黒い髪。黒い目。小さい体。口が悪い。怯えない)
耀(朧に処分され、俺と朧の間に立たされ、それでも「中に戻ったら?」と言った)
耀(雅楽の奏者の心配までしやがった。自分がまた処分されるかもしれねえのに)
盃を置く。
耀(月詠の祝福がない。分家の出。《影》の一兵)
耀(——それで、あの霊力)
耀(朧は飼い殺している。あの器を、穢れだと言って)
耀(……馬鹿が)
唇の端が歪んだ。
灯の下で見た顔を思い出す。
薄く残っていた、顎の跡。
耀(あの朔って男。俺が近づくたびに間へ入る)
耀(「宴に戻ってください」って、冷たい声で)
耀(だが、あれは来賓を警戒してるだけの目じゃなかった)
耀(……同僚、ね)
喉の奥で、低く笑う。
耀(あの顎の跡。朧がつけたんだろ)
耀(髪を掴んで、跪かせて。礼節を教えるだの、躾だの)
盃を握る指に力が入った。
耀(あの目を伏せさせるために、そうしたのか)
ぴしり、と小さな音がした。
手元を見る。
盃に細い罅が入っていた。
耀「……っ」
力を緩め、卓へ置く。
耀(俺は、何を考えている)
耀(会って一日だ。名前と顔と、霊力の異常さと、口の悪さしか知らねえ)
耀(——なのに、朧があの子に跡をつけたと思うと、腹の底が焼ける)
霊符を渡した時の反応が浮かぶ。
「もしもーし? 聞こえてる?」
耀(……次は、いつ使う)
耀(困った時だけじゃなくていいんだがな)
新しい盃を受け取り、酒を注ぐ。
今度は、すぐには飲まなかった。
耀(「また来る」と言った。行く。明日も)
耀(朔が何と言おうと、朧が何を命じようと)
耀(——もう少し、俺に顔を向けさせてえな)

【朧】
宴の終わりが近づき、朧は一度、執務室へ戻っていた。
扇を机に置く。
灯りはつけない。
暗い部屋で、指先だけを見つめている。
朧(……あの女)
朧(耀が庇った。「この子」と呼んだ)
朧(八咫の当主が、あの穢れた黒髪を)
朧(私の前で。見せつけるように)
扇を取る。
開く。
閉じる。
乾いた音が、誰もいない部屋に響いた。
朧(昼に、髪を掴んだ)
朧(あの感触が、まだ手に残っている)
朧(黒い髪。指の間を滑って、こぼれた)
朧(跪かせた。顎を掴み、顔を上げさせた)
朧(——それでも、あの目は)
朧(私を、見ていた)
朧(怯えずに)
従順な言葉を吐かせるのは、難しいことではないはずだった。
一族の当主として命じればいい。
処分を与えればいい。
今まで、それで済んできた。
朧(なのに、あの女は)
朧(謝罪を命じても、頭を下げるだけだ。目も口も、何一つ変わらない)
扇を握る手が白くなる。
朧(あの目を伏せさせたい)
朧(私が話している間だけでも、余計な口を閉じさせたい)
朧(誰に庇われるでもなく、自分から私の言葉を聞くように——)
呼吸が乱れた。
朧(……何故、そこまで考える)
朧(穢れだ。取るに足りない者だ)
朧(ならば、放っておけばいい)
それができないことを、認めたくなかった。
扇を閉じる。
今度の音は、ひどく大きく響いた。
——やがて、雅楽が止んだ。
列席者たちのざわめきが散っていく。
椀と盃を片付ける音。
回廊の灯籠が、一つ、また一つと消されていった。

朔が足を止める。
朔「……終わったな」
肩越しに、ゆめの気配を確かめる。
自分の羽織に包まれた、小さな影。
大きな裾を持ち上げながら歩いている。
朔「尋問棟へ寄る。カガミの報告を聞いてから、《影》の詰所へ提出する」
朔「その後——部屋まで送る」
同じ言葉を、また言った。
自分でも気づいて、マスクの下で口を引き結ぶ。
その時、本棟の方から足音が近づいた。
軽い。少し急いでいる。
薄桃の裾が、灯籠の残り火に揺れた。
ツキノ「あ——」
回廊の角で、ツキノが立ち止まる。
宴の装束のまま。
アッシュグレーの瞳が、ゆめを捉えた。
それから黒い羽織へ。
最後に、羽織を脱いでいる朔へ。

ツキノ(……あれ、朔の羽織?)
ツキノ(原作だと、第三章の雨のイベントでヒロインに貸すやつだよね)
ツキノ(まあ、同僚なら貸すこともあるか。元から仲がいいみたいだし)
小さな違和感はあった。
けれど、朔の攻略を横取りされたとは思わなかった。
ツキノ(朔ルート、好感度が上がりにくくて面倒なんだよね)
ツキノ(何を聞いても最初は無言だし、任務のイベントも多いし。羽織を借りるまでが長すぎる)
ツキノ(モブと仲良くしてるなら、それはそれでいいけど)
関心は、すぐに別の方へ向いた。
耀が自分に頼んだ伝言。
その宛先が、目の前の黒髪だったこと。
ツキノは表情を整え、柔らかく微笑んだ。

ツキノ「お疲れさまです。耀様から、伝言を頼まれたんです」
ツキノ「『あの黒髪の子に用がある』って。本棟の控えの間で待っているそうですよ」
ツキノ「私がこちらへ来るところだったので、ついでに伝えてほしいって言われて……」
笑顔のまま、袖を握る。
ツキノ(……私には伝言を頼むだけ)
ツキノ(会いたいのは、この人なんだ)
ツキノ(でも、霊力のことを聞きたいだけだよね。月詠の戦力を調べてるとか)
ツキノ(原作にいないモブ相手に、恋愛イベントなんて起きないでしょ)
そう考えても、耀が宴の最中までゆめを探していたことは、少し引っかかった。
朔の肩が動く。
ゆめとツキノの間へ、僅かに身体を入れた。
朔「来賓の私的な呼び出しに応じる義務は、《影》にはない。報告が先だ」
ツキノ「でも、八咫の御当主ですよ? 何も言わずに断ったら、朧様のお立場が……」
朔は黙った。
八咫の名を持ち出されれば、無視した責任をゆめへ押しつけられる可能性がある。
朧が、またそれを口実にするかもしれない。

朔(行かせたくない)
朔(だが、ここで俺が止めれば)
ゆめへ、声を落とす。
朔「……お前が決めろ」
朔「行くなら俺も行く。行かないなら、俺が断りに行く」
一拍。
朔「どちらでも——お前の後ろにいる」
ツキノの目が、僅かに動いた。
ツキノ(あ、それ。第五章の台詞に似てる)
ツキノ(……普段からこういうこと言うんだ。ヒロイン限定じゃなかったのね)
目の前の二人を、改めて見る。
長年の同僚。
実務を引き受ける朔と、それに遠慮なく頼る黒髪の女。
ツキノ(朔はこの人の世話を焼いてるし、この人も懐いてるみたいだし)
ツキノ(なら、朔のことはこの人に任せておけばいいか。無理に攻略しなくても、警護はしてくれるでしょ)
少し気が楽になった。
その一方で、耀の呼び出しには納得できないままだった。

ツキノ(……朔と仲良しなら、そっちで完結してくれればいいのに)
ツキノ(なんで耀まで、この人を気にしてるんだろう)
ツキノ「ふふ、仲がいいんですね。長く一緒にお仕事されているんですか?」
柔らかな声で言ってから、すぐに続ける。
ツキノ「では、お伝えしましたので。お返事は、耀様へお願いしますね」
くるりと踵を返した。
本棟へ戻りながら、頭の中で原作の流れを辿る。
ツキノ(朔の行動は、まあいい。元からあの人と仲がいいだけ)
ツキノ(耀は……霊力に興味があるだけ、だよね)
ツキノ(モブの警護に話を聞いたら、それで終わるはず)
ツキノ(その後は、ちゃんと私のイベントが始まるでしょ)
そう結論づけて、歩調を緩めた。
角を曲がり、姿が消える。
朔は追わなかった。
半歩前から、ゆめへ視線を落とす。
朔「……行くのか」
控えの間で待つ耀。
月詠の当主の立場。
《影》の任務。
それらを考えながら、答えを待つ。
「ちょうど霊符あるじゃん。どっかで連絡してみるわ」