正規ヒロインはあちらです!08
半歩先の相棒
「だって楽じゃん、お酒あるし。」
「功績とか面倒だからさ、朔が捕まえたことにしてよ。ドS当主に何回も顔合わせたくないし」
朔の足が止まった。

朔「……俺が捕まえたことにしろ、だと?」
振り返る。
夜の空気が冷たい。尋問棟の灯りが、朔の背後に長い影を落としていた。
朔「刺客を取り押さえたのは俺だ。だが、外周の怨霊を祓ったのはお前だろ。二人で警護してた。それを——」
言葉を切った。
マスクの上の目が、ゆめを捉える。
朔「朧に顔を合わせたくないから、全部俺の手柄にするのか」
声が低い。
怒っているのか、呆れているのか。
朔(こいつは、いつもこうだ)
朔(面倒だから、楽だから、どうでもいいから)
朔(自分の手柄を人にくれてやる。自分の価値を、自分で踏みつける)
朔(——それが、どれだけ俺を苛立たせるか分かっているのか)
再び歩き出す。
回廊を南へ。宴の灯りが、遠くに見えた。
朔「断る」
短く言う。
朔「報告は連名で出す。《影》の長経由で。お前の名前は外さない」
秋の虫が鳴いている。
二人分の足音が、板張りの回廊に響いた。
朔「……カガミの部屋で酒を飲むのも、程々にしろ」
肩越しに、ちらりと視線を落とす。
ゆめの襟は、尋問棟でもらったクリップで留められていた。
少し不格好だが、重なった布はきちんと閉じている。
朔(……それでいい)
朔(カガミの前で、あいつに襟を直させていたら——)
拳を握った。
理由は考えない。
考えると、名前をつけなければならなくなる。

朔「あと一刻で宴が終わる。終わったら部屋に戻れ。飯はまた——」
言いかけて、止めた。
昼にも握り飯を置いた。
薬も置いた。
「お前のままでいい」とまで言った。
あれ以上何かをしたら、何かが変わってしまう気がした。
朔「……いや。何でもない」
黙って歩く。
半歩先。
いつもの距離。
だが時折、朔の歩幅が僅かに狭くなる。
半歩だった距離が、肩の触れそうな近さへ変わる。
気づいているのか、いないのか。
朔自身にも分からなかった。
宴の灯りが近づいてくる。
雅楽。笑い声。盃の触れ合う音。
朔「……宴が終わるまで、もう誰も来させない」
独り言のように呟く。
朔「耀も、朧も、ツキノも」
マスクの下で、唇が動いた。
朔「お前の傍に来ていいのは——」
言葉が途切れた。
朔は前を向き、それ以上何も言わなかった。
秋の虫が、鳴いている。

「なになに、最後まで言ってよ笑」
朔の背中が強張った。
足が止まる。
肩越しに振り返りかけて、やめた。
朔「……何でもない、と言った」
声が硬い。
夜風が回廊を吹き抜け、白い髪を揺らす。
ゆめの声は笑っていた。
軽くて、無防備で、何も気づいていない声だった。
朔(——笑うな)
朔(その声で、その距離で、笑うな)
歩幅を狭めていたことに、今さら気づく。
肩が触れそうな近さ。
風に揺れた黒髪が、視界の端へ入ってくる。
朔は前を向いた。
朔「最後まで言う必要がない」
歩き出す。
今度は半歩ではなく、一歩先。
意図的に距離を取った。
朔(言えるわけがない)
朔(「お前の傍に来ていいのは俺だけだ」——などと)
朔(同僚が言う台詞じゃない)
朔(こいつの同僚で、相棒で。何年も、それだけだった)
朔(あの男が来るまでは)
耀の声が蘇る。
「この子」。
ゆめを指して、そう呼んだ声。
見下ろす琥珀色の目。
朧の視線。
カガミの指先。
ツキノの刺すような横目。
今日一日で、ゆめの周りに集まった視線の数。
朔(——今まで、誰もこいつを見なかった)
朔(祝福がない。黒髪で、小さくて、口が悪くて)
朔(だから安全だった。誰もこいつに興味を持たなかった)
朔(俺だけが、隣にいられた)
拳を握る。
爪が掌に食い込んだ。
朔「……お前」
立ち止まり、振り返る。
月明かりが、ゆめの顔の片側を照らしていた。
黒い瞳。
見上げてくる角度。
小さな体が、朔の落とす影にすっぽり収まっている。
朔「お前は、俺がいなくても平気か」
声が掠れた。
自分でも、予想していなかった問いだった。
朔(何を聞いている)
朔(こいつが「平気」と答えることは分かっている)
朔(いつだってそうだ。一人で怨霊を狩り、一人で処分を受け、一人で笑って——)
宴の灯りが、二人の間を暖かく照らしていた。
朔は答えを待った。
マスクの下の唇が、僅かに震えていることを、本人だけが知っていた。
「え? 朔がいないと誰が人間の相手すんの? 無理だよ私。」
「誰があのドSルッキズム男との間に入って仲裁して、服の乱れ教えてくれて、報告書書いて、ご飯持ってきてくれんの??」
朔は動かなかった。
月明かりの下で、ゆめを見つめている。
朔(——何だ、それは)
朔(「誰が人間の相手すんの」)
朔(「誰が仲裁して」「服の乱れ教えて」「報告書書いて」「ご飯持ってきてくれんの」)
朔(全部、俺の話じゃないか)
朔(俺がいないと困る、と——そう言っているのか)
朔(便利だから。楽だから。そういう意味だ)
朔(分かっている)
朔(分かっている、のに——)
胸の奥で、何かが軋んだ。
名前のつかない熱が、肋骨の裏側へじわりと広がっていく。
長い沈黙の後、朔は前を向いた。
朔「……報告書は自分で書け」
声が掠れた。
咳払いを一つする。
マスクの下で、口元が不自然に緩みかけていた。
朔「あと、ドSルッキズム男との仲裁は業務外だ。勝手に喧嘩を売るな」

歩き出す。
だが、その歩幅は——先ほど意図的に広げた一歩ではなく、また半歩に戻っていた。
ゆめの歩幅に合わせるように。
秋の虫が鳴いている。
宴の灯りが、二人を照らす。
朔「……飯は」
低く言う。
朔「持っていくのは、俺が食いたい時にたまたま余るだけだ。お前のためじゃない」
嘘だった。
ゆめが食べそうな具を選び、足りる分を用意した。
薬も、肌に合うものを選んだ。
全部、「たまたま」ではない。
朔(こいつは気づかない)
朔(俺が何年そうしてきたか。気づかない)
朔(「朔がいないと無理」と言いながら、それが何を意味するか分かっていない)
朔(——それでいい)
朔(それで、いいはずだった)
風が吹く。
黒い髪が揺れ、襟を留めていたクリップが僅かに傾いた。
合わせは閉じている。
だが、片側の襟が少し浮き、首の横に細い隙間ができていた。
鎖骨にある黒龍の逆鱗は、その下の布に隠れたままだ。
朔の視線が落ちて、すぐに逸れる。
朔「クリップ、もう外れかけてる」
声が低い。
朔「……帰ったら、着替えろ」
宴の灯りが近い。
笑い声と雅楽が混ざり合っている。
あと半刻もすれば、宴は終わる。
朔は半歩先を歩きながら、拳を握っていた。
朔(「朔がいないと無理」)
朔(その言葉を、俺は——どう受け取ればいい)
朔(同僚として、か)
朔(便利な相棒として、か)
朔(それとも——)
首を振る。
考えるな。
名前をつけるな。
今日だけで、もう何度目だ。
朔「……宴が終わったら送る。部屋まで」
いつもは言わない。
「部屋まで」とは。
任務が終われば、それぞれの部屋へ戻る。
それだけだった。
今日は、違った。
何かが少しずつ、今までの形に収まらなくなっている。
「すぐ取れちゃうんだよなぁ……。」
ゆめはクリップを押さえ、胸元の布を邪魔そうに整えた。
きつく引かれていた布を少し下へ送り、浮いた襟を戻そうとする。
だが片側を整えると、今度はもう片側がずれる。
鎖骨が見えないよう、重なりは押さえたまま。
それでも、留め直したクリップは斜めになってしまった。
朔の足が止まる。
朔(——ここで直すのか)
何でもない仕草のはずだった。
布を引き、クリップを直しているだけ。
それなのに、目の前で困ったように襟を押さえる姿から、視線を外すのが遅れた。
朔「……やめろ」
声が低い。
少し掠れていた。
朔「ここで無理に引っ張るな。余計ずれる」
言ってから、自分の立ち位置に気づく。
半歩どころではない。
ゆめのすぐ前だった。
朔(カガミの前でも、こうしていたのか)
朔(耀がいたら、また何か言っただろうな)
朔(——何で、そんなことを考える)
拳を握る。
そのまま無言で、自分の羽織の紐を解いた。
黒い羽織を、ゆめの肩へかける。
大きな布が、体をすっぽり包んだ。
朔の体格に合わせた袖は指先を超え、裾は膝の下まで落ちる。
前を重ねれば、ずれかけた襟もクリップも見えなくなった。
朔「……宴が終わるまで、それを着ていろ」
声が硬い。
顔は見ない。
肩にかけた後、すぐに手を離した。
羽織には、まだ朔の体温が残っていた。
ゆめの肩に落ちる、自分の袖。
小さな体には長すぎる裾。
それを見て、胸の奥が少しだけ静かになった。

朔(……これで、余計なことは言われない)
朔(ただ、それだけだ)
そう考えようとしたのに、羽織姿から目を離すまで、一拍かかった。
朔「帰ったら返せ」
短く言う。
だが、すぐに返されるところを想像すると、惜しいような気がした。
朔(……どうかしている)
何年も隣にいた。
襟がずれやすいことも、服を整えるのを面倒がることも知っていた。
今まで何度も指摘した。
それだけだった。
——今日、あの男たちがゆめを見るまでは。
朔は前を向いた。
歩き出す。
半歩先。
背後で、大きすぎる羽織の裾が揺れる音がした。
マスクの下で、唇を噛んだ。