正規ヒロインはあちらです!03
ゆめが呟いた言葉に、厨房の裏口から戻りかけた朔の足が止まった。

朔「……カガミのとこ?」
握り飯を包んだ布を手に、振り返る。
朔「あいつ今日、尋問棟にいるはずだぞ」
声に僅かな不快感が滲む。
朔(あいつのところに行くのか。わざわざ)
朔(……まあ、同じ《影》だ。別におかしくはねえ)
朔(おかしくは、ねえけど)
朔「……酒は任務中に飲むな。朧の処分がまだ下りてねえんだぞ」
ぶっきらぼうに釘を刺しつつ、握り飯の包みをゆめに差し出す。二つ。朔は自分の分を持っていない。
朔「俺は報告書出してくる。東棟の怨霊の件と、今日の警護記録」
言いながら、視線がゆめの顔を一瞬捉えた。戦闘後で髪が少し乱れている。頬に薄く埃がついている。
手が伸びかけて、止まった。
朔「……顔、汚れてる」
それだけ言って、踵を返す。
朔「カガミに酒飲まされるなよ。あいつ、人の限界見るの好きだからな」
背中越しの忠告。歩幅が少しだけ速い。
尋問棟は本家の北東、本棟から離れた場所にある。石造りの重い建物で、周囲に霊的な遮断結界が張られている。
《影》の中でも特殊な役割を担う場所。
廊下を進むと、奥の部屋から低い声が聞こえた。

カガミ「――それで? それが全部かな」
扉が半開きになっている。中を覗くと、カガミが椅子に座り、道具の手入れをしていた。
刃物を布で拭う手つきは丁寧で、どこか楽しげですらある。尋問の対象は既にいない。仕事の後片付けらしい。
ゆめの気配に気づき、顔を上げた。
カガミ「おや」
口角が上がる。
カガミ「珍しいね。自分から来るなんて。……寂しかった?」
立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。長身がゆめを見下ろす形になる。
カガミ「……ああ、ご飯か。ここで食べるつもり? 物好きだね」
視線がゆめの手の握り飯に落ち、それから顔に戻った。
頬の埃。戦闘後の乱れた髪。僅かに乱れた襟元。
カガミ「戦ってきたね。怨霊?」
手を伸ばし、ゆめの顎を軽く持ち上げた。首を左右に傾け、怪我がないか確認するように。
カガミ「傷はなし、と。……お酒が飲みたいって顔をしてるね」
指が顎から離れ、懐から小さな瓶を取り出した。
カガミ「没収品だよ。なかなかの上物。……まあ、座りなよ」
椅子を引き、自分は机の端に腰かける。
カガミ「それで? 朔はどうしたの。いつも君の後ろにいるでしょう、あれ」
楽しそうに目を細めた。
「なんか報告書だって。朧に中指立てたから。」
「私が」

カガミの手が止まった。
カガミ「――中指」
一拍の沈黙。
それから、低く笑い始めた。
カガミ「ふふ……君、朧に中指を立てたの? あの朧に?」
笑いが収まらない。机に手をついて身体を揺らしている。
カガミ「ちょっと待って。今日だよね。召喚の儀の日に。八咫の来賓もいる場で?」
目尻を拭い、ゆめを見下ろす。
カガミ「……最高だね、君」
没収品の酒瓶を開け、湯呑みに注いだ。二つ。
カガミ「それで朔が報告書か。あれも大変だね。『部下が当主に中指を立てました』って、どう書くんだろう」
湯呑みを一つゆめに差し出し、自分も口をつける。
カガミ「……それで、処分は?」
壁に寄りかかり、酒を舐めるように飲む。
カガミ「朧のことだ。黙って流すとは思えないね。特に君のことは嫌っているから」
視線がゆめの顔を舐めるように這う。戦闘後の乱れた髪。汗が乾いた首筋。握り飯を持つ小さな手。
カガミ「怨霊を祓って帰ってきて、お礼も言われず、処分だけ受ける。……いつも通りだね」
酒を一口。
カガミ「君、身長いくつだったかな」
脈絡のない質問。
カガミ「よくその小さな体で、朧に中指を立てられるね。度胸だけは一人前――」
わざとだった。からかう時の癖。ゆめの地雷を正確に踏みに行く。
尋問棟の薄暗い部屋に、秋の午後の光が細く差し込んでいる。
道具が整然と並んだ棚。拭き終わった刃物。微かに残る血の匂い。
カガミはそんな空間で、ゆめと酒を飲むことに何の違和感も感じていない。
カガミ「……まあ、飲みなよ。処分が来る前に楽しんでおこう」
湯呑みを軽く掲げた。
「152cmだしーー、チビって言うなよ目隠し」
カガミの動きが一瞬止まった。
カガミ「……152?」
湯呑みを口元から離し、ゆっくりとゆめを上から下まで眺めた。
カガミ「嘘でしょ」
立ち上がり、ゆめの前に来た。長身が影を落とす。手を伸ばし、ゆめの頭の上に掌を水平に置いた。そのまま自分の胸元まで引く。
カガミ「……どう見ても150ないよね」
にやりと笑う。
カガミ「目隠しって呼ぶんだ? 君が正確な数字を言ってくれたら、チビって呼ぶのをやめるか考えてあげるよ」
指がゆめの頭に残ったまま、軽く髪を掻き回した。乱暴ではないが、遠慮もない。
カガミ「それにしても、149がいいところでしょ。よくその身長で中指を立てたね。朧から見たら、子供が癇癪を起こしたようにしか――」
言いかけて、ゆめの表情を見た。
カガミ「おや、怒った?」
楽しそうだった。完全に楽しんでいる。
椅子に座り直し、足を組む。酒を一口。
カガミ「まあ、座りなよ。握り飯が冷めるよ」

ゆめが座ると、視線が自然に胸元へ落ちた。戦闘後で衣服が乱れたまま。149cmの身体に不釣り合いなほど豊かな曲線が、布越しに主張している。
カガミは視線を戻さなかった。隠す気もない。
カガミ「……君ってさ」
壁に背を預け、湯呑みの縁を指で撫でる。
カガミ「朧に中指を立てて、八咫の当主に気に入られて、怨霊を祓ってもお礼は言われず、昼ご飯を持って尋問棟に来る」
目を細める。
カガミ「普通じゃないよね、君」
声が少し低くなった。からかいとは違う温度。
カガミ「……それで、朔は知っているの? 君が八咫から霊符をもらったこと」
ゆめの反応を見る前に、自分で答えた。
カガミ「知っているだろうね。あれ、君のことだけは見逃さないから」
カガミ「保護者みたいに張り付いているくせに、自覚がない。面白いよね、あれ」
没収品の酒を注ぎ足す。ゆめの湯呑みにも。
カガミ「……耀って男、どうだった?」
何気ない口調。だが目が笑っていない。
カガミ「八咫の当主が、わざわざ《影》の末端に霊符を渡す。そんな話、聞いたことがないよ」
湯呑みを傾け、酒を飲み干す。
カガミ「君の霊力に目をつけたのかな。それとも――」
指が机を叩く。
カガミ「別の理由かな」
尋問棟の空気が、僅かに変わった。カガミの目が、仕事の時と同じ色を帯びている。
「さあね。みーーんな同じとこしか見ないよ。最初に髪の毛、次に顔、んでおっぱい」
「変態ばっかりぃ」
カガミの手が湯呑みを持ったまま止まった。
一拍。
それから、低く笑った。
カガミ「……髪、顔、おっぱい。順番まで把握しているんだ」
壁に背を預けたまま、視線をゆめに落とす。149cmの身体。戦闘で乱れた衣服。布越しに主張する胸元。
隠す気のない目で、ゆっくり見た。
カガミ「変態ばかり、ね」
立ち上がり、ゆめの前に来た。見下ろす。
カガミ「じゃあ、俺も正直に言おうかな」

指がゆめの顎を持ち上げた。軽く。だが逃がさない力加減。
カガミ「最初に目。次に態度。その次に――」
視線が露骨に胸元へ落ちる。
カガミ「……まあ、三番目は同じだね」
指が顎から離れ、ゆめの頭をぽんと叩いた。
カガミ「でも、耀は違うでしょう」
椅子に座り直し、酒を注ぐ。
カガミ「あれが見ていたのは霊力だよ。君の身体じゃなくて、君の中にあるもの」
湯呑みの縁を指で撫でる。
カガミ「八咫の当主って、そういう生き物なんだよ。面白い力を見つけたら、手元に置きたがる」
目が笑っていない。
カガミ「……君の霊力は異常だ。祝福がないのに、祝福持ちを超えている。俺は尋問が専門だから、霊力の細かいことは分からないけれど――」
指が机を叩く。
カガミ「それでも分かるよ。君の中にあるもの、普通じゃない」
尋問棟特有の沈黙が落ちた。遮断結界のせいで外の音が届かない。
カガミ「朔も気づいているはずだよ。あれは霊力ゼロだけど、勘だけは鋭いから」
酒を一口。
カガミ「何を隠しているのか、とは聞かないよ」
壁に寄りかかり、ゆめを見る。
カガミ「俺の仕事は、人の秘密を暴くことだからね。聞かなくても、そのうち分かる」
軽い口調。だがカガミの目は、道具を手入れしていた時と同じ――静かで、正確で、逃さない目だった。
カガミ「……握り飯、食べないの? 冷めるよ」
話題を変えた。わざとだった。
カガミ「もう一杯飲む? 没収品はまだあるよ」
ゆめの湯呑みに酒を注ぎ足す。指がゆめの手に触れた。
離さなかった。
カガミ「……小さな手だね」
呟くように言って、ようやく指を離した。
「次ちっせえとかチビとか豆とか言ったらお茶ぶっかけるからね」
カガミの口角が上がった。
カガミ「今持っているの、お茶じゃなくてお酒だよ」
余裕の表情。だが、ゆめの目が本気で据わっているのを見て、一拍置いた。
カガミ「……分かった、分かった」
両手を軽く上げる。降参のポーズ。
カガミ「言わないよ。――今は」
最後に小さく付け足した。
沈黙。
尋問棟の遮断結界が、外の音を遮る。二人の呼吸と、酒を注ぐ音だけが響く。
カガミは湯呑みを傾けながら、ゆめが握り飯を食べる様子を眺めていた。小さな口で頬張る仕草。酒を飲む時に唇が湯呑みの縁に触れる形。無防備に首を傾ける角度。
カガミ(……自覚がないんだよね、この子)
カガミ(変態ばかり、とか言いながら、自分が何をしているか分かっていない)
カガミ「ねえ」
低い声。
カガミ「君、朔の前でもそうやってご飯を食べるの?」
唐突な質問だった。
カガミ「口の端に、米粒がついているよ」
嘘だった。
ゆめが指で口元を拭う仕草を、カガミは目を細めて見ていた。
カガミ「……ついてないけどね」
身を屈め、ゆめの顔を覗き込む。距離が近い。酒の匂いが混じる吐息が、ゆめの耳に掠めた。
ゆめの肩が僅かに跳ねた。
カガミの目が、それを捉えた。
カガミ「――耳、弱いでしょう」
確信を持った声。尋問官の目。
指が伸び、ゆめの耳の縁を軽くなぞった。爪の先が、耳朶の柔らかい部分に触れる。
カガミ「ここ。今、震えたね」
声が低い。耳元で囁くような距離。
カガミ「君、自分がどういう顔をしているか、分かっていないでしょう」
指が耳から離れない。ゆっくりと、耳朶を親指と人差し指で挟む。
カガミ「朧に中指を立てる度胸はあるのに、耳を触られたらこれなんだ」
見下ろす目が暗い。楽しんでいる。だがそれだけじゃない。
カガミ「……危ないね、君」
指が離れた。
椅子に座り直し、酒を煽る。
カガミ「耀の前でそれをやるのは、やめておきなよ。あれに見つかったら――」
言葉を切り、湯呑みの中身を見つめた。
カガミ「いや、朔にも見せない方がいい」
カガミ「あれは自覚がないだけで、君に関しては、とっくに壊れかけているから」
静かな声だった。からかいの色が消えている。
カガミ「俺は仕事で人間を観る。壊し方も、壊れ方も知っているよ」
湯呑みを置く。
カガミ「朔は――君が誰かに取られるって状況になったら、自分でも驚くくらい壊れると思うよ」
尋問棟の空気が重い。遮断結界の中、カガミの声だけが響く。
カガミ「……まあ、余計なお世話だね」
笑みが戻る。軽い調子が戻る。
カガミ「もう一杯いく? どうせ午後の任務は――」
その時、尋問棟の扉が叩かれた。
硬い音。三回。《影》の定型連絡。
カガミの目が変わった。酒を置き、道具を布で覆う。
カガミ「……入って」
扉が開き、若い影の構成員が膝をついた。
構成員「カガミ様。朧様より、召喚儀式場での不敬について――当該の者を本棟へ出頭させよ、との命です」
沈黙。
カガミの視線がゆめに落ちた。
カガミ「……来たね、処分」
構成員が去った後、カガミは湯呑みの酒を飲み干した。
カガミ「行くしかないね。無視したら、余計に面倒になるよ」
立ち上がり、ゆめの頭に手を置いた。
カガミ「……耳を触られて震えるような顔、朧の前では絶対にしないでね」
声が低い。
カガミ「あれは俺とは違う壊し方をするから」
「はぁ〜うっざ」
「はいはい、わかったわかった」
ゆめが立ち上がり、握り飯の残りを口に押し込んだ。
カガミは腕を組み、その様子を見ている。
カガミ「……飲み込んでから行きなよ。喉に詰まるよ」
ゆめが湯呑みの酒で流し込む。カガミは小さく息を吐いた。
カガミ「俺も行くよ」
ゆめが振り返った。
カガミ「何、その顔。別に君のためじゃないよ。朧が言ったのは『当該の者を出頭させよ』でしょう。引率が必要じゃない?」
カガミ「……それに、朧が君にどういう顔をするのか、見てみたいしね」
正直だった。
本棟。
長い廊下を歩く。使用人たちがゆめを見て、さっと道を空ける。目を伏せる者。あからさまに顔を背ける者。
カガミは半歩後ろを歩いていた。視線はゆめの背中――小さな肩と、揺れる黒髪に落ちている。

カガミ(……149cm。この身体で月詠に立っている)
カガミ(朧に中指を立てて、怨霊を祓って、お酒を飲んで、処分を受けに行く)
カガミ(壊れないね、この子)
カガミ(――壊れないから、壊してみたくなる)
思考を切り、足を止めた。
朧の執務室の前。襖の向こうから、微かに香の匂いが漂う。
控えていた側仕えが膝をつく。
側仕え「朧様がお待ちです。……お一人で」
カガミへの牽制。カガミは肩を竦めた。
カガミ「はいはい。じゃあ、ここで待っているよ」
壁に背を預け、ゆめを見下ろした。
カガミ「泣かないでね」
からかいではなかった。低い声。
襖が開いた。
広い執務室。畳の上に正座した朧が、扇を閉じて膝の上に置いていた。
その隣に――ツキノがいた。

ツキノ「あ」
小さく声を上げ、すぐに口を閉じた。
朧の視線がゆめを捉えた。
冷たい。
嫌悪と怒りが、隠す気もなく瞳に浮かんでいる。

朧「……入れ」
短い命令。声に温度がない。
ゆめが中に入ると、側仕えが背後で襖を閉めた。
朧「跪け」
朧の声が執務室に落ちた。
朧「今朝、召喚の儀の場で何をしたか。覚えているな」
扇を手に取り、ゆっくりと開く。口元を隠す。だが目は隠れない。
朧「八咫の来賓が列席する中、一族の当主に対し――あの所作」
扇の向こうで、唇が歪んだ。
朧「ツキノ様の前で。白龍の巫をお迎えする神聖な儀の場で」
声が低くなる。
朧「穢れた血が、どこまで増長すれば気が済む」
ツキノは隣で、居心地悪そうに座っていた。
ツキノ(うわ……朧様、本気で怒ってる……)
ツキノ(でもまあ、当主に中指立てたんでしょ? そりゃそうなるよね)
ツキノ(原作でもモブが粛清されるイベントあったし……)
ゆめの前に、朧が立ち上がった。
見下ろす。身長差が、そのまま圧になる。
朧「跪けと言った」
声が冷えた。
ゆめが動かない。
朧の扇が閉じられ、ゆめの肩を打った。軽くはない。
朧「聞こえなかったか、穢れ」
ツキノが息を呑む。
朧の手がゆめの髪を掴み、ゆっくりと下へ押した。畳に膝をつかせる。黒髪が朧の指の間からこぼれる。
朧「……その態度を矯正してやる。ツキノ様の前で、二度と恥を晒さぬように」
掴んだ髪を引き上げ、ゆめの顔を仰向かせた。
小さな顔。大きな瞳が、怯えもせず朧を睨んでいる。
朧の呼吸が、一瞬だけ乱れた。
「視界に入るなって言ったから目線むけんなよって言っただけじゃないですかあ?」
「なんでわざわざ呼び出して再び視界に入れてんの???」
朧の手が、ゆめの髪を掴んだまま止まった。
執務室が静まり返る。
ツキノが目を丸くした。
ツキノ(……え、今なんて?)
ツキノ(処分される側がそれ言う???)
朧の目が細くなった。怒りが一段、深くなる。
朧「……何だと」
声が低い。扇を持つ手が白くなるほど握り締められている。
朧「視界に入るなと言ったのは、この私だ。お前のような穢れを見たくないからだ」
髪を掴む手に力が入る。ゆめの頭皮が引っ張られ、顔が更に仰向く。首が晒される。
朧「だが勘違いするな。お前が視線を向けるなという意味ではない」
朧「お前は――目を伏せろ。当主を見上げるな。息をするな。存在するな。それが、穢れた血の分際だ」
膝をついたゆめを見下ろす。149cmの身体が、朧の前で小さく映る。
だが、その目は伏せられていない。
朧の呼吸が乱れた。
朧(……何だ、この目は)
朧(怯えもしない。媚びもしない。穢れた血の分際で、この私を――)
髪を掴んだまま、もう片方の手がゆめの顎を掴んだ。顔を固定する。
朧「口の利き方を教えてやろうと思ったが――」
扇の先端がゆめの首筋に触れた。冷たい金属の骨が、鎖骨の窪みを滑る。
朧「矯正では足りんようだな」
ツキノが口を開いた。

ツキノ「あ、あの、朧様……そこまでしなくても……」
朧の視線がツキノに移った。一瞬で表情が変わる。
朧「……ツキノ様。ご不快でしたら、席を外されますか」
柔らかい声。先ほどまでとは別人のような温度。
ツキノ「い、いえ……大丈夫、です」
ツキノ(やば……朧様のスイッチの切り替えすごい……)
ツキノ(でも原作でも朧ルートってSっ気強めだったし……こういう感じなのかな)
ツキノ(……てか、この子、全然怯えてないんだけど)
ツキノの視線がゆめに戻る。顎を掴まれ、首に扇を当てられ、髪を引かれている。
なのに、目が死んでいない。
ツキノ(……強いな、この子)
ツキノ(モブのくせに)
朧がゆめに向き直った。
朧「ツキノ様がお優しい方で良かったな、穢れ」
扇が首筋から顎の下へ移動する。ゆっくりと。
朧「処分を言い渡す」
声が冷える。
朧「向こう三日間、任務の報酬を没収。加えて――」
ゆめの顎を掴む手に力が込められた。
朧「本日中に、ツキノ様へ正式に謝罪しろ。ツキノ様の前で穢れた血が不敬を働いた。その非礼を詫びよ」
朧「拒否すれば、《影》からの除名を検討する」
扇を閉じ、ゆめの顎から手を離した。

朧「……下がれ」
最後にもう一度、ゆめの目を見た。怯えない瞳。睨み返す黒い目。
朧の喉が、微かに鳴った。
朧(――何故だ)
朧(穢れた血が。この私を、こんな目で)
胸の奥に、名前のつかない熱が走った。不快だった。不快なはずだった。
朧は扇を開き、口元を隠した。頬に薄く血が上っていることを、自分でも気づいている。
朧「……下がれと言った」
声が掠れた。
ゆめの髪から手を離す。指先に、黒髪の感触が残っている。
朧(柔らかい)
思考を振り払い、背を向けた。
ツキノが、朧の耳が赤いことに気づいた。

ツキノ(……え?)
ツキノ(朧様、今……照れてた?)
ツキノ(いや、まさか。怒ってただけだよね?)
ツキノ(……だよね?)
襖の外で待っていたカガミが、出てきたゆめの顔を見た。

カガミ「……泣いていないね」
ゆめの顎に、朧の指の跡が薄く残っている。
カガミの目が細くなった。
カガミ「報酬没収三日と、巫への謝罪か」
聞こえていた。遮音結界は部屋の中から外への音は完全ではない。
カガミ「……軽いね。朧にしては」
意味深に呟き、歩き出した。
「軽くねぇよ息すんなとか言ったよあのバ……。あいつ」
「謝罪くらいならいくらでもぉ。はぁ。だっっる。報酬没収数ヶ月とかだったら、朔とかカガミが私にご飯食べさせないと行けなくなるじゃん」
カガミは歩きながら、ゆめの言葉を聞いていた。
カガミ「……朔とか俺が食べさせる、ね」
口角が上がる。
カガミ「君、それ、自分で言って分かっているの?」
振り返らずに歩く。声だけが低い。
カガミ「男に『ご飯を食べさせて』って言っているんだよ。その顔で」
足を止め、振り返った。見下ろす。
カガミ「……まあ、俺は別に構わないけどね」
意味深に言い残し、再び歩き出す。
廊下を曲がったところで、白い影が立っていた。

朔だった。
壁に背を預け、腕を組んでいる。報告書を出した帰りだろう。ゆめが出頭させられたことを、既に聞いたらしい。
朔「……終わったか」
視線がゆめの顔に落ちる。顎に残った赤い指の跡。
朔の目が変わった。
朔「……何だ、それ」
声が低い。一歩近づき、ゆめの顎に手を伸ばしかけ――止めた。指先が宙で震えている。
朔「朧にやられたのか」
問いではなかった。確認だった。
カガミが壁に寄りかかり、腕を組んだ。
カガミ「髪を掴んで跪かせて、扇で首筋をなぞって、顎を掴んで顔を上向かせていたよ。まあ、朧にしては軽い方でしょう」
淡々と報告する。全部聞こえていた。
朔の拳が握り締められた。
朔「……お前」
ゆめに向けた声。低い。怒りが滲む。だが誰に対する怒りか、本人にも分かっていない。
朔「何で俺を呼ばなかった」
朔「処分に呼ばれるなら、先に言え。俺が――」
言葉が途切れた。
朔(俺が、何だ)
朔(俺がいたところで、朧の処分は変わらねえ)
朔(こいつの顎に跡が残るのを、止められたわけでもねえ)
朔(……でも)
拳を開き、息を吐いた。
マスクの下で歯を食い縛っている。
朔「……報酬没収三日と、ツキノへの謝罪。それだけか」
カガミ「それだけだよ」
朔「……軽いな」
カガミ「でしょう?」
二人の視線が一瞬交差した。同じことを考えている。朧にしては軽すぎる。
朔はゆめの前に立ち、マスクの上から顔を見た。
朔「飯は食ったか」
カガミ「握り飯とお酒」
朔「……酒? 任務中だぞ」
カガミ「没収品の上物。美味しかったよ」
朔の視線がカガミに刺さった。
朔「……お前が飲ませたのか」
カガミ「自分から飲みたいって言ったんだよ、この子が」
朔がゆめに向き直る。
朔「……謝罪はいつ行く」
声を落とし、実務的な口調に戻した。感情を押し込めるように。
朔「今日中って言われたなら、早い方がいい。夕方にはツキノの歓迎の宴がある。その前に済ませろ」
マスクの下の口元が強張っている。
朔「俺が付き添う」
有無を言わさない声だった。
「わかったわかった。あと30分くらいしたら行くよ。」
「……素面じゃなくて酒飲んでから行こ。気分悪いし」
「てかあいつ髪掴んで押し付けたんだよ??穢れとか言ってさあ、白髪がそんなに偉いの??むっかつくぅ。私だってババアになったら白髪になるっつーの」
カガミが低く笑った。
カガミ「おばあさんになったら白髪……ふふ、確かにね」
朔は笑わなかった。
ゆめの顎に残った赤い指の跡を見ている。
朔「……30分な」
声が硬い。
朔「それ以上引き伸ばすなよ。朧の機嫌がこれ以上悪くなったら、報酬没収が三日じゃ済まなくなる」
カガミが懐から先ほどの没収品の酒瓶を取り出し、振った。まだ残っている。
カガミ「はい。素面じゃ行けないんでしょう」
朔がカガミを睨んだ。
朔「飲ませるな」
カガミ「本人が飲みたいって言っているでしょう」
朔「これから謝罪に行くのに酒臭い状態で行ったら余計な処分が増える」
カガミ「一口二口で、そこまで酒臭くなるかな」
朔が黙った。反論できない。ゆめの酒の強さは長年の付き合いで知っている。
朔「……一口だけだ」
ぶっきらぼうに言い、壁に背を預けた。
カガミがゆめに酒瓶を渡す。指が触れた。今度は、すぐ離した。朔の視線を感じている。
カガミ「それにしても、髪を掴んで跪かせて『穢れ』か」
壁に寄りかかり、腕を組む。
カガミ「朧って面白いよね。穢れだ、消えろって言いながら、わざわざ呼び出して、自分の手で髪を掴んで、顎を持って顔を覗き込んで」
カガミ「嫌いなら、触らなければいいのに」
朔の眉が動いた。
朔「……何が言いたい」
カガミ「別に。事実を言っただけだよ」
沈黙が落ちた。廊下に秋の風が吹き込む。

朔はマスクの位置を直しながら、ゆめの横顔を見ていた。酒瓶に口をつける唇。細い首。顎の赤い跡。
朔(朧がこいつの髪を掴んだ)
朔(顎を掴んだ)
朔(首に扇を当てた)
胸の奥が、ざらつく。
朔(……俺は報告書を書いてた。こいつが処分を受けてる間)
朔(カガミは壁の向こうで聞いてた。俺は、知りもしなかった)
拳を握り、開く。
朔「……次は俺に言え」
低い声。
朔「出頭命令が来たら、先に俺に言え。付き添えなくても、せめて——」
言葉が詰まった。せめて何だ。何ができる。霊力のない自分に。
朔「……待ってるから」
それだけ絞り出して、黙った。
カガミがゆめの方を見た。
カガミ「朔の分も飲む? あれ、任務中は絶対に飲まないから」
軽い口調で空気を変える。
カガミ「……さて。30分後、ツキノのところか」
指を組み、首を鳴らした。
カガミ「ツキノって巫、どんな子だった? 儀式の時は、遠くからしか見ていないんだよね」
カガミ「白髪にアッシュグレーの瞳。正統な白龍の巫。朧が溺愛している」
ゆめを見る。
カガミ「君に謝罪させるような子? それとも、朧と同じで見下してくるタイプかな」
酒瓶を受け取り、自分も一口飲む。
カガミ「……まあ、どちらでもいいか。君が頭を下げるところ、見届けてあげるよ」
朔が腕を組んだまま口を開いた。
朔「カガミは来るな。お前がいると話がややこしくなる」
カガミ「冷たいね。俺が何をするっていうの?」
朔「煽る」
カガミ「……それは否定できないね」
秋風が廊下を吹き抜け、ゆめの黒髪を揺らした。
朔の視線が、その髪に落ちる。朧に掴まれた場所。
朔(……柔らかそうだな)
思考を振り払い、目を逸らした。
朔「……30分だ。ここで待ってる」